家族葬専門葬儀社オフィスシオン しきたりアカデミー

葬儀や死の専門情報を通じて、そこに向かいより良い人生を歩めるように、少しでもお役に立てれば幸いです。

10月28日 葬と死の由来19

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。

今回のシリーズは、「葬と死の由来」

物事にはすべて始まりがあるが、意外と知らないことが多いものです。しかし風俗習慣でいつ頃から始まったのかを知ることは大変に楽しいものです。今回は死と葬儀などに関連したテーマでその起源を探ってみました。

●デスマスクの始まり

一デスマスクの起源はギリシャ、ローマ時代からあったが、日本では明治14年(1881)の新聞集138号に「大鳥圭介君の夫人の像はいまだ収斂ならざる前に石膏泥をもって、その面に冒して範となしつくりしゆえ、分毫も生身にたがわず出来ると申す噂なり」とある。これが始めか。

●天冠の由来

死者の額に三角の布を着ける風習が各地に残されているが、この由来は禅宗の道忠がまとめた『小叢林清規』(1653)の「在家送亡」に記されている。「布帽に卍字を書き、亡者の額に結ぶ」とある。

●動物霊国の始まり

府中市にある多摩動物霊園は、大正12年、禅宗系の宗教法人慈恵院の開山が、動物好きということから、遺体をあずかり供養したことから始まった。なお動物の供養は『円満本光国師見灯録』(1516)に小鳥に対する回向文が収録されている。

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金, 10月 28 2011 » 葬と死の由来 » No Comments

10月27日 葬と死の由来18

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。

今回のシリーズは、「葬と死の由来」

物事にはすべて始まりがあるが、意外と知らないことが多いものです。しかし風俗習慣でいつ頃から始まったのかを知ることは大変に楽しいものです。今回は死と葬儀などに関連したテーマでその起源を探ってみました。

●中陰供養の始まり

人が死んで次の生を受けるまでの四十九日間を中陰といい、この間七日ごとに供養を行う。この供養は仏典の『梵網経』『地蔵菩薩本願経』などにある。『梵網経』には「父母兄弟…亡滅の日、及び三七日ないし七七日には、また本乗経律を読誦講説すべし」とある。日本では十世紀項から四十九日の法要が盛んとなった。

●剃髪の始まり

剃髪は、僧になるための得度式の一部であるが、この目的は煩悩を断ち、騎慢な心を除くためである。仏典では『過去現在因果経』『華厳経』『遺教経』などに記されている。天皇の剃髪は大仏殿を建てた聖武天皇(701~756)から始まった。

●仏壇の始まり

仏壇とは仏像を安置する須弥壇のことであるが、在家に仏壇を安置することは、天武天皇の14年(686)3月27日の詔勅に、『日本書紀』に「諸国家ごとに仏舎を作り、すなわち仏像および経を置き、もって礼拝供養せよ」とある。平安以降は持仏堂と称して住宅の1室に仏像を安置する家があったが、一般の庶民は寺院が発行した刷り仏を壁に貼る程度であった。

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木, 10月 27 2011 » 葬と死の由来 » No Comments

10月26日 葬と死の由来17

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今回のシリーズは、「葬と死の由来」

物事にはすべて始まりがあるが、意外と知らないことが多いものです。しかし風俗習慣でいつ頃から始まったのかを知ることは大変に楽しいものです。今回は死と葬儀などに関連したテーマでその起源を探ってみました。

●葬儀社の始まり

明治6年9月に東京神田美倉橋辺りで貸車業を営んでいた上林某が葬送用の人力車19輛を作ったのが始めという。

●卒塔婆の始まり

卒塔婆は遺体や焼骨を供養するためのもので、長い板に5つの刻みを入れ、戒名を入れたものである。『日本紀略』の康保4年(967)に「5畿内並びに伊賀・伊勢国等26ケ国、卒塔婆6千基を立てるべし。宣旨下され高さ7尺、径8寸、天皇御悩みによるなり」とある。

●尊厳死協会の始まり

日本で安楽死問題を始めて紹介したのは、公法学者の市村光恵博士で、明治39年(1906)『医師の権利義務』のなかで「安死術の如きも決して医術に属することなし。安死術とは臨終に際し非常に苦痛に悩む患者をして苦痛なくして早く死せしむる術をいう」とある。昭和51年、日本安楽死協会が設立され、昭和58年に日本尊厳死協会と改称された。

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水, 10月 26 2011 » 葬と死の由来 » No Comments

10月25日 葬と死の由来16

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今回のシリーズは、「葬と死の由来」

物事にはすべて始まりがあるが、意外と知らないことが多いものです。しかし風俗習慣でいつ頃から始まったのかを知ることは大変に楽しいものです。今回は死と葬儀などに関連したテーマでその起源を探ってみました。

●石棺の始まり

石で棺をつくることを伊志岐(いしき)というが、第11代垂仁天皇の32年に、皇后が死去す。このとき和泉の人が石棺を作って献上した。天皇はこれをほめて石作りの大連公の姓を与える。石棺は天皇及び皇親以外は用いなかった。そして第36代考徳天皇(596~654)の時に臣下の棺は木を使用し、漆を塗るべしと定められる。また645年、石作大連公の石作部を監督することをやめ、喪事があれば朝延が工人に石棺を作らせるようになる。

●石碑の始まり

石碑は功を石に刻んで後世に伝えるものだが、第21代雄略天皇の時代に、小子部栖軽という者がいた。天皇は栖軽の功績を賛えて墓を作り、その上に碑を立て功績を刻んだ。これが日本で墓上に碑を立てる始まりである。

●法事の始まり

◇百ケ日法要

「百ケ日」法要はもともと儒教の「卒哭忌」を仏教で採用したもの。『礼記』(BC402~221)に「士は3月にして葬る。この月や卒哭す」これまでは喪祭であったが、卒哭忌をもって吉祭とする。日本では687年9月9日に崩御された天武天皇の百ケ日法要が12月19日に行なわれた。

◇一周忌・三回忌

一周忌は中国で行なわれた小祥忌が、仏教に取り入れられたものである。また大祥忌は仏式の三回忌に当たり、死亡より25ケ月目に行なう祭儀である。一周忌は757年の聖式天皇のものが始めで「僧千五百余人を東大寺に議して、斎を設ける」とある。三回忌は鎌倉時代に入ってからで、1186年の平重衡の3回忌が始めである。

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火, 10月 25 2011 » 葬と死の由来 » No Comments

10月24日 葬と死の由来15

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今回のシリーズは、「葬と死の由来」

物事にはすべて始まりがあるが、意外と知らないことが多いものです。しかし風俗習慣でいつ頃から始まったのかを知ることは大変に楽しいものです。今回は死と葬儀などに関連したテーマでその起源を探ってみました。

●生前の死亡広吉

江戸時代の西洋画の先覚者である司馬江漢は、76歳の文化10年(1812)8月に、チラシに自画像入りの辞世を刷って友人に配付した。その内容は「江漢先生老衰して画を求めるものありといえども描かず、蘭学天文あるいは奇器を好むことも倦み、ただ老荘のごときを楽しむ。

去年は吉野の花を見、それよりして京にとどまること1年、今春東都に帰り、先ごろ上方さして出られしに、相州鎌倉円覚寺誠拙禅師の弟となり、遂に大悟して死にけり、万物生死を同じくして無物にまた帰る者は、しばらく集まるの形なり…」しかし翌年には蘇生通知を友人宛てに送っている。

新聞に載った死亡広告としては、作家の斉藤緑雨が、明治37年(1904)4月に肺患のため親友の馬場に依頼して口述で自分の死亡広告を書いてもらった。

「僕本日を以て目出度く死去候間この段広告つかまつり候なり、4月13日 斉藤賢」この広告は死亡すると同時に掲載になった。

●施餓鬼の始まり

施餓鬼法要は障害をなす餓鬼に対して施す法会で、その典拠は『救抜焔口餓鬼陀羅尼』である。中国に施餓鬼経典が紹介されたのは唐代(618~907)で、日本では平安時代に天台・真言宗の僧侶によって紹介された。明恵上人伝記に「上人それより施餓鬼法をぞ毎夕修し給いける」とある。

●埋葬法の始まり

大化2年(646)3月22日に諸王諸臣の墳墓の制が定められ、畿内より諸国にいたるまで葬地を限り、ところどころに散埋することが禁じられた。大宝1年(701)に作られた律令が制定され、郡および道路の付近に埋葬することが禁じられた。

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月, 10月 24 2011 » 葬と死の由来 » No Comments

10月17(月)から10月21日(金)までの放送をyoutubeにアップしました。

10月17日 葬と死の由来10

10月18日 葬と死の由来11

10月19日 葬と死の由来12

10月20日 葬と死の由来13

10月21日 葬と死の由来14

土, 10月 22 2011 » 管理者「はる」より » No Comments

10月21日 葬と死の由来14

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今回のシリーズは、「葬と死の由来」

物事にはすべて始まりがあるが、意外と知らないことが多いものです。しかし風俗習慣でいつ頃から始まったのかを知ることは大変に楽しいものです。今回は死と葬儀などに関連したテーマでその起源を探ってみました。

●神葬の始まり

日本に仏教が到来してから、天皇の葬儀も仏式で行なわれるようになり、それは明治になるまで続いた。その間神葬で行なわれたものに、徳川家康の葬儀がある。明治5年6月28日、政府は自葬を禁止し、神葬または僧侶に依頼して葬儀を行なうことを定めた。これより一般での神葬祭が行なわれるようになった。

●頭北面西の由来

死者の頭を北に向けるという習慣は、釈迦が涅槃に入った時の姿を模したといわれており、『臨終方決』『涅槃経後分』『増一阿含経』に載っている。『増一阿含経』では「仏、阿難に告げる。わが滅度のあと、仏法は北天竺(北インド)にあるべし。この因縁をもっての故に、座を敷くに北回きにせしむ」とある。なお儒教の経典の『礼記』でも北向きを教えており、日本では『栄華物語』のなかで藤原道長(1027)が遺体を北向きにされたことが記されている。

●喪章の始まり

明治2年(1869)版の西洋見聞録に「黒服を用い、黒色の布片をもって帽子のまわりを巻き、また書簡袋の周辺を黒くするなどをもって喪人たるを示す」とあるように、西洋の喪章についての紹介がなされた。喪章が日本で用いられたのは明治14年3月13日、ロシア皇帝アレクサンドル2世の死亡のときで、大礼服の左袖に黒い綬をつけて服喪の意を表すことが決められた。これがやがて一般にも普及していった。

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金, 10月 21 2011 » 葬と死の由来 » No Comments

10月20日 葬と死の由来13

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今回のシリーズは、「葬と死の由来」

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●殉死の始まり

君主の死に際して、臣下が後をおって命を捧げることをいう。「日本書紀」の中で、第11代の垂仁天皇の28年10月、天皇の母の弟の倭彦命が亡くなられた。「遺体は築坂に葬ったが、このとき近習の者を集めて、全員生きたままで、陵のまわりに埋めたてた。日を経ても死なないため、昼夜泣きうめいた。ついには死んで腐っていき、犬や鳥がそれを食べた」とある。このなかで殉死は古い習慣であるといっているので、これ以前に行なわれていたことが分かる。

●心中の始まり

男女の心中の最初は天和3年(1683)、遊女市の丞となじみ客の長右衛門との情死である。近松も『心中刃は氷の朔日』のなかで「誰が初めしこの契り、音に聞きしは生玉のそれが初めのだい市の丞」と述べている。大阪で流行を続けた心中が江戸に飛び火したので、幕府は享保7年(1722)心中禁止令を出すに至った。

●湯灌の由来

死者の身体を清める湯灌の作法は、701年唐の義浄が訳した『仏説無常経』の付録に臨終方法という経がある。そこに「信男、信女、もしくは人あり、まさに命終せんと欲せば…香浴にて操浴し清浄にし、新浄衣を着ず」とある。

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木, 10月 20 2011 » 葬と死の由来 » No Comments

10月19日 葬と死の由来12

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●死体解剖の始まり

江戸時代の医家の山脇東洋(1705~61)は、宝暦4年(1714)2月7日、京都所司代の許可を得て4人の男の死体を解剖する。これが日本最初の医学解剖で、その1ケ月後に解剖慰霊祭を行なった。明治に入って明治2年(1869)解剖に関する法律が出来、それには「病者の請願あるは死後解剖を許す」とある。ホルマリンによる遺体の長期保存が可能になったのは19OO年頃である。

●死亡広吉の始まり

新聞の死亡広吉の始まりは、明治6年l月14日『日新真事誌』紙上の広告である。内容は死亡告知と葬儀の案内で、「本日12日の朝外務少補上野景範の父上野景賢病死せられ、来る15日午後第一時築地仲通り同氏邸宅より出棺、芝伊更子大円寺へ葬送あい成り筈につき同氏友人等の為にこれを報告す 上野氏友人」とある。

●儒葬の始まり

儒葬とは儒教の礼によって行なう葬儀であるが、12世紀の儒学者、朱子が編纂した「朱子家礼」が、日本の儒葬の基になっている。儒葬を日本で最初に行なったのは土佐の野中良継で、慶安4年(1651)6月に、その生母の葬儀を儒葬で行なった。ついで林羅山は明暦2年(1656)3月に母荒川氏の儒葬を行なっている。

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水, 10月 19 2011 » 葬と死の由来 » No Comments

10月18日 葬と死の由来11

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●辞世の始まり

この世に別れを告げる時に残す詩歌で、これが盛んになったのは平安後期からである。寿永3年(1182)7月、平家の一族が安徳天皇を擁して都落ちしたさいに、平薩摩忠度が途中から引き返して藤原俊成の許を訪れ、「さざなみや志賀の都は荒れにしをむかしながらの山桜かな」の辞世を残している。

●自葬の禁止

明治5年6月28日自葬が禁止され、これ以後の葬儀は神官または僧侶に依頼することが決められた。自葬とは自分の信じるところによって行なう葬儀で、江戸時代の神道、儒教はともに自葬であって、喪主以下の人々が神道、儒教の式次第に則って行なった。

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火, 10月 18 2011 » 葬と死の由来 » No Comments