家族葬専門葬儀社オフィスシオン しきたりアカデミー

葬儀や死の専門情報を通じて、そこに向かいより良い人生を歩めるように、少しでもお役に立てれば幸いです。

9月24日 西郷隆盛

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   西郷隆盛(文政10年12月7日~明治10年9月24日 (1828~1877))   維新の三傑の一人である西郷隆盛は、文政10年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島加治屋町に生まれました。   薩摩藩の下級武士でしたが、若くして、藩主・島津斉彬に重用され国事に奔走しました。 しかし、斉彬の急死による失脚や、島津久光との衝突などから奄美大島に流されてしまいます。   しかし、大久保利通などの後押しもあり復帰し、第1次長州征討では幕府側の参謀として活躍しました。 以後、討幕へと方向転換をはかり、坂本竜馬の仲介で長州の木戸孝允と薩長連合を結び、1867年12月には勝海舟らとともに江戸城無血開城を実現し江戸を戦禍から救い、王政復古の維新を成功させました。   そして、明治新政府の指導者の一人となり、廃藩置県などの改革を進めましたが、征韓論をめぐり大久保利通らと対立したことにより辞任し鹿児島に戻ります。   故郷に戻った隆盛は、士族の教育・軍事訓練・開拓を進める機関として、私学校を設立し後進青年の育成に努めました。   しかし、明治10年2月、生徒たちがが西郷を擁して新政府に反乱を起こします。 いわゆる西南戦争といわれるもので、新政府に対する不平士族が集まり新政府軍と7ヶ月にも及ぶ戦いとなりました。 しかし、物資で勝る新政府軍におされ、西郷ら薩摩軍幹部らは鹿児島に敗走し、城山に立てこもり応戦しましたが政府軍の集中砲火にあい最後は自刃しました。 享年51。

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金, 9月 24 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

9月17日 徳川家治

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   徳川家治 元文2年5月22日(1737年6月20日)-天明6年8月25日(1786年9月17日)   江戸幕府の第10代将軍である徳川家治。 宝暦10年(1760年)、第9代将軍・徳川家重と側室・お幸の方の子として江戸城西ノ丸で誕生します。 幼名は竹千代とよばれ、祖父である徳川吉宗(8代将軍)から寵愛されて育ちました。 吉宗は家治に期待を寄せ、自ら帝王学や武術などを教え込んだといわれます。 宝暦4年(1754年)倫子女王と結婚し、将軍家では例外的に愛妻家だったようです。 宝暦10年(1760年)、父・家重の隠居により徳川宗家の家督を相続し第10代将軍職を継承します。そして家重の遺言に従って、田沼意次を側用人(そばようにん)に重用し政治に努めました。 しかし次第に幕政を老中に任命した田沼意次に任せ、自らは趣味に没頭することが多くなりました。特に将棋が好きだったようで、晩年には「象棋攻格」という本も著しています。現在も棋譜が残っております。 趣味の世界では高い能力を発揮していたとも言われますが、政治に対して関心が薄かったことから無能扱いされることも多く、田沼意次に対する悪評価と合わせて語られることが多くあります。 天明6年(1786年)、脚気による心不全と思われる原因で死去。享年50でした。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。  

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金, 9月 17 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

9月10日 シャルル3世

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   シャルル3世(1818年12月8日 – 1889年9月10日)  モナコ大公であるシャルル3世。 1818年12月8日、フロレスタン1世の長男としてこの世に生をうけ、1856年6月20日から没する1889年9月10日まで大公に在位しました。   在位中の1860年代、マントンやロクブリュヌといった“スペルゲス”と呼ばれるモナコ近郊の荒れ地に対して、地中海気候であることなどから、高級リゾート地として発展すると考え開発に力を入れました。   また、当時禁止されていたカジノを許可した事から、モナコがリゾート大国として大発展する礎を築きました。 カジノと観光収入により国民が税金を納める必要がなくなったのも、シャルル3世の功績によるものと言われています。   また、現在この周辺地域一体が「モンテカルロ」と呼ばれているのも「シャルルの山」という意味で、彼の功績をたたえてこう呼ばれています。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。  

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金, 9月 10 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

9月3日 本因坊秀策

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   本因坊秀策(ほんいんぼう しゅうさく)1829年6月6日-1862年9月3日   江戸時代の囲碁棋士である本因坊秀策は、1829年6月6日、備後国因島にて誕生しました。1837年、本因坊丈和(ほんいんぼう じょうわ)に入門し、1839年に初段に昇段し、1842年には四段にまで昇格しました。 1846年(弘化3年)には、八段の井上幻庵因碩(いのうえげんなんいんせき)と数度の対局を行います。幻庵は秀策の実力を認め、後に「耳赤の一局(みみあかのいっきょく)」と呼ばれる著名局を振り返り「秀策の芸は七段を下らない」と評したと言われています。   1848年に第14世本因坊跡目となり六段に昇段します。 そして丈和の娘である花と結婚します。 また翌年から御城碁(おしろご)と呼ばれる徳川将軍の御前にて行われる対局に出仕し、19戦19勝無敗という大記録を打ちたてました。   1862年(文久2年)、江戸でコレラが大流行しました。 本因坊家内でもコレラ患者が続出し、秀策は看病に当たりましたが、自らが感染してしまい34歳でこの世を去りました。 この看病のおかげで本因坊家では秀策以外の犠牲者が出ることはありませんでした。 棋力のみならず人格も優れていたため、棋聖、碁聖とも称されています。  また、近年では少年漫画『ヒカルの碁』で、「平安の天才棋士の霊が、かつて取り憑いていた棋士」として登場しており、子供たちにも囲碁史上最強の棋士として親しまれることになりました。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。  

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金, 9月 3 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

8月27日 スティーヴィー・レイ・ヴォーン

  「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   スティーヴィー・レイ・ヴォーン(1954年10月3日 – 1990年8月27日)   アメリカ合衆国のブルースギタリスト・スティーヴィー・レイ・ヴォーン。 1954年、テキサス州ダラスで誕生しました。 音楽を始めたきっかけは、3歳年上の兄ジミー・ヴォーンの影響がありました。 後に最も影響を受けた人物としてジミーのことを語っています。 また、ブルースギタリストではありますが、マディ・ウォーターズやBBキングらブルースマンだけでなく、ジミ・ヘンドリックス、エリック・クラプトンなどからも強い影響を受けたと言われています。 プレイスタイルはロックやR&Bの要素も取り入れた骨太のブルースサウンドが特徴です。 また、ギターはフェンダー社のストラトキャスターを主に使用し、中でも「ナンバーワン」と呼ばれるサンバーストのストラトキャスターを生涯に渡って愛用していました。   ハイスクールを中退した後、ミュージシャンの夢を志してオースティンに向かい、「ポール・レイ・アンド・ザ・コブラス」というバンドで活動を開始しました。その後、「トリプル・スレット・レヴュー」などいくつかのバンドを経て、「ダブル・トラブル」を結成し、テキサスを中心に精力的に活動を開始します。   1981年、デビッドボウイの目にとまり大きな転機が訪れます。1982年にはバックバンドとしてジャズフェスティバルにも参加しました。さらに翌年にはボウイのアルバム「レッツ・ダンス」にも参加しました。また、この年には「スティーヴィー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブル」でファーストアルバムを発表し、50万枚を売り上げてゴールド・ディスクを獲得しました。   その後、麻薬中毒なり入院治療することになりましたが、1989年には4作目「In Step」でグラミー賞(Best Contemporary Blues Recording)を獲得す

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金, 8月 27 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

8月20日 豊臣秀次

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   豊臣秀次(1568年-1595年8月20日) 豊臣秀吉の姉・日秀(にっしゅう)の子である豊臣秀次。   永禄11年(1568年)、豊臣秀吉の姉・ともと木下弥助の長男として生まれました。 織田信長の浅井攻めに際して宮部継潤に養子として送り込まれ、浅井攻略後は四国に対する影響力を強めるため、阿波の有力者である三好康長に養子として送り込まれ三好信吉と名乗りました。   本能寺の変の後、秀吉に重用され賤ヶ岳の戦いに参戦して武功を挙げます。 その後は紀伊雑賀、四国を攻略し軍功を挙げたことにより、近江国に43万石を与えられ、天正18年(1590年)には小田原攻めにも参加し、ついには尾張国・伊勢国北部などに100万石の大領を与えられました。   そして、天正19年(1591年)8月に秀吉の嫡男・鶴松が死去したため、11月に秀吉の養子となり、その翌月には秀吉の後継者として、豊臣姓を贈られ、関白職を譲られました。   しかし、2年後の文禄2年(1593年)、秀吉に実子の秀頼が生まれると、秀吉から冷遇されるようになります。そして、文禄4年(1595年)、秀吉の命令で高野山に追放された後、切腹を命じられ青巌寺・柳の間にて生涯に幕をとじました。享年28歳でした。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。  

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金, 8月 20 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

8月13日 フローレンス・ナイチンゲール

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   フローレンス・ナイチンゲール 1820年5月12日 – 1910年8月13日    ナイチンゲールは裕福な地主の家庭に生まれました。両親の新婚旅行中にフィレンツェで生まれたことから、フィレンツェの英語読みであるフローレンスと名付けられました。    幼い頃から、フランス語・ギリシャ語・イタリア語、ラテン語などの外国語をはじめ、様々な学問、哲学、アートなど英才教育を施され育ちましたが、慈善訪問で接した農民の生活に触れるうちに、人々に奉仕する仕事に就きたいと思うようになりました。     クリミア戦争が始まると看護師を志願し、イスタンブールのスクタリ病院で勤めました。当時の傷病兵の死亡率は40%でしたが、衛生状態の改善を行い3ヶ月で死亡率を5%まで低下させました。    献身的な姿勢から「クリミアの天使」と呼ばれ、その後看護婦が「白衣の天使」と呼ばれるようになりました。また夜回りを欠かさなかったことから「ランプの貴婦人」とも呼ばれていました。しかし彼女はこの呼ばれ方をよく思わず「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」と言葉を残しています。    彼女は戦場から戻った後、1880年にナイチンゲール看護専門学校を設立しました。そして看護と衛生にその生涯を捧げ、その活動は国際赤十字創設者の一人、スイス人のアンリ・デュナンに受け継がれてゆきます。    晩年は虚脱状態になやまされるなど病床の日々を送り、1910年8月13日永眠しました。 クリミア戦争で国民的英雄にまつりあげられ、あまりにも有名になってしまったことを嫌っていた為、墓石には彼女の遺言により、ただイニシャルのみ「F.N 1820年生 1910年没」とだけ記されました。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。  

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金, 8月 13 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

8月6日 ウィリアム・ケムラー

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   今回のテーマは、「今日のご冥福」。 本日が命日の歴史上の人物をご紹介します。   ウィリアム・ケムラー(1860年5月9日 – 1890年8月6日)   ケムラーは、電気椅子で死刑になった最初の人物です。 1889年3月29日に内縁の妻ティリー・ジーグラーを手斧で殺害した罪で死刑を宣告されます。ケムラーの弁護団は電気椅子は残酷な刑罰だと抗議しましたが認められませんでした。 その背景には、かの有名な発明家トーマス・エジソンが深く絡んでいたと言われます。 当時、電流の標準規格として交流電流を推すウェスティングハウスと直流電流を推すエジソンとの間で、電流規格の覇権争いが行われていました。直流電流を推すエジソンは、交流電流が危険であることを国民に刷り込むため、電気椅子による死刑を通じて広めたいという意図があり、政府の立場を強く支持したと言われています。   1890年8月6日の処刑当日の早朝5時、ケムラーは起こされ、白いシャツとネクタイ、スーツを着用させられました。朝食を摂り、お祈りをすませた後、髪を剃られ、処刑室に入りました。17人の立会人のもと、ケムラーは椅子に固定されます。このとき取り乱すことも抵抗することもなく、こう言葉を遺します。 「皆さんの幸運を祈ります。私は良い場所を得るだろうと確信しています。準備は出来ています」 電気導線を通された後、椅子に縛られ、顔を覆われ、頭に金属の拘束具を取り付けられます。 「私は急いでいませんから、ゆっくりきちんとして下さい」と話しかけますが、ダーストン刑務所長は「さよなら、ウィリアム」と答え、電気椅子のスイッチを入れるよう命令します。 1,000ボルトに充電された発電機のスイッチが入り電流を流されました。肉の焦げる臭いが充満し、吐き気をもよおした人は次々と部屋から出て行きました。17秒後、電流が切られ、ケムラーの死が宣言されました。 しかし、実際にはケムラーにはまだ息がありました。それに気付いた主治医のスピツカ博士はあわてて電流を戻すように叫びました。再び電流が流されたケムラーは2,000ボルトの衝撃を受け、血管が破裂し出血し、ついにはケムラーの体は燃えだしました。残酷で恐ろしい光景の中、処刑が完全に終わるまで8分を要しました。   立会人の記者も「恐ろしい光景で、絞首刑よりはるかに残酷だ」とのこしています。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。

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金, 8月 6 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

7月30日金曜日 オットー・フォン・ビスマルク

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   オットー・フォン・ビスマルク(1815年4月1日 – 1898年7月30日)   ビスマルクはプロイセン王ヴィルヘルム1世に仕え、ドイツ統一のため鉄血政策をすすめ鉄血宰相との異名をもちます。   1815年4月1日、ベルリン北西のシェーンハウゼンのユンカー(貴族)の家に生まれ、大学で法律を学び、国家の法律行政に関わる官吏をしたのち、陸軍に志願しました。 父の死後、ビスマルク家の家督を継いで農場の経営に従事していましたが、1849年にプロイセン国会の下院議員に当選し政治活動を始めました。ロシア公使やフランス大使を歴任するなどの外交経験から国際政治感覚を身に付け、国王の信任を得て、1862年プロイセン王国の首相に任命されました。   この時、「今必要なものは、鉄と血である」と兵器と兵隊の軍備増強を議会に認めさせ、これ以後「鉄血宰相」と呼ばれるようになりました。   また鉄血政策を大きく進める一方で、良好関係を作る外交にも努め、イタリア、ロシア、オーストリアと同盟を結びます。それを背景にデンマークに戦争を仕掛け勝利し領地を奪いました。そして、次にはデンマークから奪った領地を巡りオーストリアと対立すると、入念な準備のもとオーストリアに戦争を仕掛けわずか7週間で勝利し、ドイツ連邦の主導権をオーストリアからプロイセンに移すことに成功させました。ビスマルクは普墺戦争の勝利の後フランスとも戦いフランス帝政を崩壊させ、ドイツ統一への歩を進めました。そして1871年1月、ヴェルサイユ宮殿においてプロイセン王ヴィルヘルム1世を初代ドイツ皇帝に即位させ、ドイツ帝国の成立が宣言されました。   しかし、1888年、ビスマルクが長年仕えたヴィルヘルム1世が死去すると、ヴィルヘルム2世が跡を継ぎましたがビスマルクとたびたび衝突し、1890年解任されてしまいます。その後、ハンブルク近郊のフリードリヒスルーに引退し、1898年7月30日にこの世を去りました。   伊藤博文や大久保利通をはじめとする明治の政治家にも深く影響をあたえ、明治憲法制定の際にプロイセンの憲法を真似たことは有名です。「賢者は歴史か ら学び愚者は経験からしか学ばない。」などの数々の名言も遺しています。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。

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金, 7月 30 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

7月23日金曜日 光明皇后

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   光明皇后(こうみょうこうごう、701年 – 760年7月27日)   藤原不比等の娘であり、聖武天皇の皇后である光明皇后。聖武天皇の母である藤原宮子も藤原不比等の娘であり異母姉という関係です。光明皇后というのは通称で、正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょうおうしんにんしょうこうたいごう)となります。   718年、聖武天皇との間に、阿倍内親王(のちの孝謙天皇)を出産し、724年(神亀元年)夫である聖武天皇の即位とともに夫人号を得ます。727年(神亀4年)基王(もといおう)を生みましたが、皇太子に立てられた基王が夭折したため後継争いで長屋王の変が起こりました。長屋王の変の後、729年(天平元年)皇后にするとの詔が発せられ、史上はじめて人臣から立后されました。これ以降、藤原氏の子女が皇后になる先例ともなりました。そして皇后として、阿倍内親王の立太子や孝謙天皇としての即位させ、甥の藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を行いました。   また、光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を聖武天皇に進言したとも言われています。また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」や医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行いました。聖武天皇の愛品などを東大寺に寄進し、その宝物を収めるための正倉院をつくり、他にも興福寺や法華寺など数多くの寺院の創建に関りました。   そして、聖武天皇の没後から4年、760年(天平宝字4年)7月27日、この世を去りました。     次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。    

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金, 7月 23 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

7月16日金曜日 板垣退助

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   板垣退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) – 大正8年(1919年)7月16日)   板垣退助は天保8年(1837年)土佐藩士・乾栄六正成の長男として生まれました。幕末には、倒幕運動に参加し、武力倒幕を主張しました。明治2年(1869年)明治新政府において、「薩長土肥」の筆頭藩士である、木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に、参与に就任します。そして、明治3年(1870年)に高知藩の大参事、明治4年(1871年)に参議となりました。しかし、明治6年(1873年)征韓論を主張しますが、欧米視察から帰国した岩倉具視らの慎重論に敗れ、新政府は分裂し、板垣は西郷隆盛らとともに下野してしまいます。   その後は、自由民権運動を推進し、自由党を結成して党首となりました。全国を遊説してまわり、党勢拡大に努めていましたが、暴漢に襲われ負傷しますが立ち上がり「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言いました。「板垣死すとも自由は死せず」という言葉で覚えている方も多いと思います。   明治31年(1898年)対立していた大隈重信の進歩党と憲政党を組織して、通称隈板内閣(わいはんないかく)で内務大臣として入閣します。しかし、内閣は内紛が激しく、4ヶ月で総辞職することとなり、明治33年(1900年)、立憲政友会の創立とともに政界を引退しました。   政界引退後は、機関誌「友愛」を創刊したり、全国の華族に華族の世襲禁止を問う活動を行ないました。そして1919年7月9日、82歳でこの世を去りました。     次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。      

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金, 7月 16 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

7月9日金曜日 森 鷗外

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   森 鷗外(もりおうがい、1862年2月17日- 1922年7月9日)   明治の文豪として知られる森鴎外は1862年島根県に生まれました。小説家の顔以外にも、陸軍軍医や官僚として勤めた経歴もあります。   東京帝国大学医学部を卒業した後、陸軍の軍医となり、陸軍省派遣留学生としてドイツで4年間過ごしました。 明治22年(1889年)、読売新聞の付録に「小説論」[17]を発表し、弟の三木竹二らとともに日本最初の評論中心の専門誌『しがらみ草紙』を創刊しました。   外国文学などの翻訳や評論的啓蒙活動をつづけながら、ドイツを舞台にした「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」のドイツ三部作を発表しました。 その他にも「阿部一族」「山椒大夫」「高瀬舟」などの代表作をのこしています。   また軍医としては、日清戦争や日露戦争に軍医として出征することになりますが、明治40年(1907年)中将相当の軍医創刊に昇進し、軍医のトップである陸軍省医務局長に就任したキャリアもあります。   晩年は、1922年7月9日、萎縮腎、肺結核のためにこの世をさりました。 死後は遺言により、墓には栄誉や称号を刻まず本名である「森林太郎ノ墓」とだけ刻まれました。享年60でした。   次回のテーマは、最期の言葉です。   家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。  

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金, 7月 9 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

6月25日金曜日 マイケル・ジャクソン

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   マイケル・ジャクソン(1958年8月29日 – 2009年6月25日)   「キング・オブ・ポップ」ことマイケル・ジャクソン。世界に衝撃が走ったあの日から、もう一年が経ちました。 マイケル・ジャクソンは1958年8月29日、10人兄弟の8番目として、アメリカ合衆国のインディアナ州に誕生しました。4人の兄たちと結成した「ジャクソン5」のボーカルとして1966年にデビューをし、69年にはメジャーデビュー曲「I want you back」で全米シングルチャートの1位を獲得しました。1979年にはソロデビューし、82年にリリースされたアルバム「スリラー」は全世界で1億枚以上のセールスを記録し、ギネスブックにも認定されました。 また、アフリカ救援のためライオネル・リッチーと「ウイ・アー・ザ・ワールド」を共作し、名だたる著名人も多数参加し、世界中にムーブメントをおこしました。早くから環境問題や貧困問題などに高い関心をもち、音楽の力で変えようと活動していたことでも知られています。 しかし、エンターテイメントでの大成功とは裏腹に、私生活では何かとスキャンダルで騒がれた人生でもありました。エルビス・プレスリーの娘リサ・マリーとの離婚、その後デビー・ロウと再婚し二人の子をもうけるも離婚。また、ネバーランドでの少年に対する性的虐待などの罪に問われ、2003年には逮捕をされてしまいます。しかし、性的虐待の裁判では無罪評決を受けますが、法廷闘争などで多額の借金を負ってしまいネバーランドを手放す羽目にもなりました。 その後、再起を目指し2009年には12年ぶりの公演がロンドンで行われることが決定され、チケット発売日には100万枚以上のチケットがわずか5時間ほどで完売するほどでした。 しかし公演目前の6月25日に自宅で倒れ救急搬送されますが、午後2時26分、UCLA医療センターで亡くなりました。 検視の結果、鎮静剤プロポフォールによる急性中毒が直接の死因とされました。 その後、カリフォルニア州のフォレストローン墓地に埋葬されました。   ロンドン公演のリハーサル映像を収めた映画「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」は全世界で大ヒットとなりました。       

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金, 6月 25 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

6月18日金曜日 豪姫

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   豪姫(ごうひめ)(1574年-1634年6月18日)   備前の戦国大名・宇喜多秀家の正室の豪姫。 1574年、前田利家の四女として尾張で誕生しましたが、幼少の頃に、子宝に恵まれなかった羽柴秀吉と北政所の養女に出されます。豪姫は養子として、秀吉や北政所に寵愛されたといわれ、秀吉が豪姫に宛てた手紙も現存しています。   そして、1588年(天正16年)15歳で秀吉の甥である宇喜多秀家の正室として嫁ぎ、二男二女に恵まれました。 1600年(慶長5年)、宇喜田秀家が関ヶ原の戦いで西軍について敗れたため、宇喜多氏は改易となりました。 秀家は死亡偽装工作を行うなどしながら島津氏に匿われ薩摩に潜伏していました。しかし、島津氏が徳川家康に降ったことにより、秀家は助命を条件に徳川方に引き渡され息子2人と共に八丈島に流罪とされます。 そして、豪姫は娘と共に兄の前田利長のもとへ戻されました。 その後は一時キリシタンとなりますが、当主である前田利常にキリシタンであるなら八丈島の秀家や子供達への援助を打ち切ると迫られ棄教しました。   関が原後は、賊将の妻として見られる中でも宇喜多家の女性として生き、1634年6月18日、61歳でこの世をさりました。葬儀も宇喜多氏の菩提寺である浄土宗大蓮寺で行われました。   八丈島・大賀郷の南原海岸には、秀家と豪姫の石像が建てられています。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。  

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金, 6月 18 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

6月11日金曜日 ダニエル・カークウッド

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   ダニエル・カークウッド(1814年9月27日 – 1895年6月11日)   アメリカ合衆国の天文学者であるダニエル・カークウッドは、小惑星帯に木星の重力の作用によって小惑星が少なくなった領域を発見したことで知られています。    カークウッドはアメリカ合衆国メリーランド州で生まれ、ペンシルベニア州のヨーク・カントリー・アカデミーで数学を学びました。 卒業後は同校で教鞭をふるった後、ランカスター高校の校長、ポッツヴィルアカデミーの校長を務めました。その後もいくつかの大学で教授となりました。     カークウッドは小惑星の軌道の研究において、小惑星の分布を調べていた時、公転周期が木星と整数比になる軌道範囲に小惑星の少ない領域があることを1866年に発見しました。この領域は「カークウッドの空隙(くうげき)」と呼ばれています。 尚、土星の環にも同じような隙間がみられますが、これは衛星の運動によるものだそうです。    様々な業績からカークウッドは国際的な評価を得て「アメリカのケプラー」と称えられました。 月のクレータや小惑星にもカークウッドの名が命名されており、インディアナ大学の天文台は彼にちなんでカークウッド天文台と命名された天文台もあります。    そして、1895年6月11日、カリフォルニア州リバーサイドで亡くなりました。享年80歳でした。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。  

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金, 6月 11 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

6月4日金曜日 聖武天皇

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   聖武天皇(しょうむてんのう) 大宝元年(701年) – 天平勝宝8年5月2日(756年6月4日)    奈良時代の第45代天皇である聖武天皇は、文武天皇(もんむてんのう)の第一皇子で、母は藤原不比等の娘・宮子です。   和銅7年(714年)元服が行われましたが、皇親勢力と藤原氏との対立などにより即位は先延ばしとなり、元正天皇(文武天皇の姉)が中継ぎとして皇位を継ぐことになりました。その後、24歳で元正天皇より皇位を譲られて天皇に即位します。    即位当初は皇親勢力の有力者・長屋王が政権を担っていました。長屋王と対立する藤原氏は藤原不比等の娘・光明子の立后(りっこう)を画策していました。  光明子の立后に反対する長屋王と藤原氏の対立が深まり、不比等の息子で光明子の兄弟である藤原四兄弟の謀略により、長屋王は自殺に追い込まれます。そして光明子は史上初めて人臣から皇后となりました。    しかし、その後に疫病が流行し、藤原四兄弟や政府高官のほとんどが死亡し体制が大きく崩れかけ、さらに追い討ちをかけるように藤原広嗣の乱が起こるなどして、不安定な時代が続きました。  そのため、聖武天皇は仏教を厚く信仰し、国分寺の建立や東大寺盧舎那仏建立の詔を出したり、平城京から恭仁京(くにきょう)、難波京(なにわきょう)、そして745年に再び平城京に戻るまで何度も遷都をしました。一説には、長屋王の呪いを恐れていたためとも言われています。   天平16年(743年)墾田永年私財法を制定し、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元年(749年)娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位し、太上天皇()だいじょうてんのう)となりました。そして、天平勝宝8年(756年6月4日)崩御しました。    聖武天皇は積極的に唐の文化を取り入れながら、仏教に深く帰依し、全国に国分寺や国分尼寺をつくり、天平勝宝4年(752年)には東大寺盧舎那仏の開眼供養を行いました。聖武天皇の治世は不安定な時代でもありましたが、仏教中心の天平文化が栄えた時代でもありました。天皇没後は光明皇后の意向で、聖武天皇の愛用品が東大寺に納められ、一部は正倉院に伝存していると言われます。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。

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金, 6月 4 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

5月28日金曜日 斉藤道三

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   斉藤道三(生年不明~1556年5月28日)   美濃の戦国大名であり、美濃の蝮と恐れられた梟雄(きょうゆう)・斎藤道三。 僧侶から油商人となり下克上を繰り返し戦国大名にまで上り詰めた人物だと知られていますが、昭和40年代に発見された古文書「六角承禎条書写」により、斎藤道三の国盗り物語は父の長井新左衛門尉と親子二代で行った説が有力視され、定着しつつあります。 いずれにしても素性がよく分からない人物でもあるため、かつて知られていた道三像をご紹介いたします。   1500年前後に生まれた道三は11歳で京都妙覚寺で僧侶となりました。 その後、還俗して松波庄五郎と名乗り油問屋の娘と結婚し油商人となりました。 行商をしているとき、かつての法弟である日運に再会し、彼の縁故で土岐氏小守護代の長井長弘の家臣となりました。 庄五郎は西村勘九郎正利と名をあらため次第に頭角をあらわします。 そして、土岐守護の次男である土岐頼芸の家督相続に力を貸し信頼を得ますが、仕えていた長井長弘を殺害し長井氏の家名を乗っ取り、次には守護代斎藤氏の名跡を継ぎ斎藤利政を名乗り、ついには下克上により頼芸を追放し美濃国主となったとされています。   晩年は娘の濃姫を織田信長に嫁がせて同盟を結び、自らは剃髪して入道し道三とあらため家督を義龍へ譲りました。 しかし、次第に義龍と不和となり、ついには義龍は道三に対して挙兵し、1556年5月28日、長良川河畔で義龍軍に敗れ、謀略の限りをつくし下克上でのし上がった道三も最後は、我が子に下克上で討たれてしまいました。享年63でした。   時世は「捨ててだにこの世のほかはなき物をいづくかつひのすみかなりけん」     次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。  

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金, 5月 28 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

5月21日金曜日 野口英世

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   野口英世(のぐち ひでよ、明治9年(1876年)11月9日 – 昭和3年(1928年)5月21日)   日本の細菌学者である野口英世博士は、2004年から千円札の肖像としてもおなじみです。 1876年、福島県の貧しい農家に生まれましたが、幼い頃囲炉裏に落ち、左手に大火傷を負ってしまい、指がくっついてしまうという障害がのこりました。手の障害を馬鹿にされたりもして不登校になったこともありました。   高等小学校4年のとき、左手の障害に傷つき、苦悩の日々を送ってきたことを綴った作文を担任の小林先生が読み上げました。何とかしてあげたいと考えた小林先生や同級生は、左手の手術費用を集めるため募金を募り、手術を受けることができました。そして、充分ではありませんが、指が使えるようにもなりました。この手術がきっかけで医師にあこがれ、医学の道を目指すことになりました。   そして当時は、医師になるには帝国大学の医学部を卒業するか、医師資格試験に合格するかしかありませんでしたが、医学部進学には経済的な事情もあるため、英世は資格試験に挑戦します。当時は通常7年かかると言われていたものの、わずか1年足らずで合格しました。   その後は、伝染病研究所の所長・北里柴三郎に語学力をかわれ助手をしていましたが、アメリカからジョンズ・ホプキンス大学のフレキスナー教授が訪問した際に接待をしたことをきっかけに、アメリカ行きの夢をふくらませ、24歳の時、渡米をしました。   アメリカでは、梅毒の病原体スピロヘータの純粋培養に成功し、ノーベル賞の候補にも名前が挙がりました。 1918年、南米のエクアドルで黄熱病の病原体を発見したと発表し、それを証明するために1928年アフリカのガーナのアクラに出張し研究を進めようとしましたが、現地で黄熱病にかかってしまい、51歳でその人生に幕を閉じました。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいた

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金, 5月 21 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

5月14日金曜日 大久保利通

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。     大久保利通(おおくぼ としみち、1830年9月26日-1878年5月14日    薩摩藩出身の大久保利通は、幼なじみでもある西郷隆盛らとともに討幕運動を推進し、明治政府を樹立し王政復古の政変を実現しました。  木戸孝允らと版籍奉還、廃藩置県を実現し、明治4年には大蔵卿となり地租改正を行いました。そして、欧米視察後には、内務省を設立し、事実上の首相とも言える内務卿を兼務しました。  しかし、西郷隆盛の征韓論に反対して対立が始まり、1877年鹿児島士族の反乱軍のリーダーに担ぎ出された西郷隆盛と西南戦争が勃発します。結局、反乱は沈みましたが、西郷隆盛という盟友を失います。  そして、官僚主導の産業振興政策を推進して工業化と軍事化の近代化に成功しますが、現在に通ずるタテ割り行政や官僚主導の弊害などの元とも言われることがあります。  明治11年5月14日、出勤途中に石川県の不平士族である島田一良(いちろう)らに暗殺されました。49歳でした。  子孫には、前総理大臣の麻生太郎氏などをはじめとする秀才が多いことでも有名です。   次回のテーマは、最期の言葉です。   家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。  

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金, 5月 14 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

5月7日金曜日 真田信繁

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   真田信繁(さなだ のぶしげ) 慶長20年5月7日(1615年6月3日)   真田信繁は、現代では真田幸村(さなだゆきむら)という名前の方が有名かもしれません。 信繁は、武田家の配下だった真田家の信濃上田城主・真田昌幸の次男として生まれました。旗印である六文銭が有名ですが、正しくは「六連銭」と呼ばれる家紋です。これは、三途の川の渡し賃である冥銭を表しているといわれ、旗印にすることは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう)を意味するといわれています。   真田家は武田家が滅ぼされた後、信長の配下となりましたが、本能寺の変により信長が明智光秀に討たれると真田家は後ろ盾がなくなってしまいました。この間に徳川家康との間で戦があり、豊臣秀吉が仲介をしましたが、この縁で真田家は豊臣家に仕えることになります。秀吉亡き後、徳川家康と石田三成との間で関ヶ原の戦いが起こりますが、真田家はどちらかが負けても真田の家名は残るように、信繁の兄である信之は東軍に、信繁は西軍に着きました。   敗れた西軍についた信繁親子は所領を没収され、浪人として生活をすることになりました。その間に父を亡くし、辛い生活を強いられましたが、1614年徳川との戦いに向け、豊臣家に加勢するように誘われ大坂城に入りました。 徳川との決戦に備え、浪人中に学んだ軍略を提案し野戦を主張しますが、その時は受け入れられず籠城戦を取ることになりました。そのような状況でも、軍略を駆使し、籠城戦となったときに大坂城の弱点である南側に通称「真田丸」と呼ばれる出丸を構築し、大阪冬の陣の時にはここへ誘い込み徳川方を苦しめました。 しかし、大坂夏の陣では、家康に和議を破られ外堀を埋められたことにより大坂城は丸裸となりました。もはや防御機能が無くなった状態での籠城戦では勝ち目が無くなりました。信繁は最後の抵抗をみせ、徳川本陣まで攻め込み、徳川家康をあと一歩のところまで追いつめますが、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、「自分の首を差し出し高名とせよ」と敵にその首を授け波乱の生涯を49歳で終えました。     次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。  

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金, 5月 7 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

4月30日金曜日 第4代サンドウィッチ伯ジョン・モンタギュー

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   第4代サンドウィッチ伯ジョン・モンタギュー(John Montagu, 4th Earl of Sandwich、1718年11月3日 – 1792年4月30日)   18世紀のイギリス海軍大臣である第4代サンドウィッチ伯ジョン・モンタギューは、クック船長の太平洋探検航海の支持者の一人で、サンドイッチの発明者とも言われています。   略歴は、カレッジを卒業後、まずは諸国を遊学しました。帰国後、海軍本部委員会委員に就任し、陸軍大佐、全権大使、海軍大臣を経て、1753年8月に国務大臣となりましたが、在任中にウィルクス事件が勃発しました。 ウィルクス事件とは、1763年、煽動政治家のジョン・ウィルクスが、「ザ・ノース・ブリトン紙」で国王や閣僚のスキャンダルを暴露しましたことにより、国王が憤慨し、名誉毀損などの罪でウィルクスを投獄しました。これに憤激した民衆はウィルクスの釈放を求めて大暴動を起こしました。騒動後に劇場で上演された、作品でサンドウィッチ伯爵は一連の行動を皮肉られ、長らく悪印象を持たれることになってしまいました。 その後も郵政公社総裁、国務大臣、再度海軍大臣を務めました。   また伯爵は、クック船長の太平洋探検の有力な支持者でもあり、探検にあたり海軍本部の予算が充てられました。1778年にクック船長が発見したハワイ諸島を「サンドウィッチ諸島」と命名しました。サウスサンドウィッチ諸島と、アラスカのモンタギュー島にも、伯爵の名前が残っています。   しかし、私生活では妻が病気で発狂してしまったり、愛人を射殺されるなど不幸が続き、1792年4月30日、失意の中73歳でこの世を去りました。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。

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金, 4月 30 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

4月23日金曜日 ウィリアム・ワーズワース

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth, 1770年4月7日-1850年4月23日)   イギリスのロマン派詩人であるワーズワースは、同じくロマン派の詩人である親友コールリッジとの共著「抒情歌謡集」によってロマン派運動を大きく進めました。 ロマン主義とは18世紀の終わりから19世紀にかけて、イギリスやフランスを中心に、文学や芸術などの古典主義の形式の枠組みを壊して、自由な表現を追求しようとしたムーブメントです。   ワーズワースは、1770年、北西イングランドの「湖水地方」と呼ばれるコッカマスに誕生しました。1778年、母の死去と共に、ワーズワースの父は彼を学校へと送り出しますが、法律家であった父もまた1783年に世を去りました。 かくしてワーズワースは孤独な少年時代を送ることになりますが、自然の美しさが彼の心の慰めとなりました。   そして1787年、ケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・カレッジに入学し、1790年にはフランスに渡りました。フランスでは、アネット・ヴァロンと恋に落ち、1792年に娘・カロリーヌが誕生しました。しかし、ワーズワースは経済的な理由でイギリスへと一人で帰国してしまいます。   1795年サミュエル・テイラー・コールリッジと出逢い親友となり、コールリッジの近所に転居しました。1798年、ワーズワースとコールリッジは、イギリスのロマン主義運動において、画期的な作品集となる「抒情歌謡集」を共同で著し出版しました。 その後、ワーズワースは、愛する湖水地方に住居を構え、ワーズワース、コールリッジらは「湖水詩人」として知られるようになります。   1843年には73歳にして政府等によって公式に任命された「桂冠詩人」となりました。多くのロマン派詩人が夭逝したことに対して、ワーズワースは1850年4月23日、80歳という長寿で人生に幕をとじました。  

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金, 4月 23 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

4月16日金曜日 川端康成

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   川端康成(かわばた やすなり、1899年〈明治32年〉6月14日 – 1972年〈昭和47年〉4月16日)   川端康成は『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『古都』など日本の美しさを表現した作品を発表し、日本人初のノーベル文学賞を受賞しました。   1899年6月14日、医師である父・栄吉、母・ゲンのもと大阪市北区に生れました。 幼くして両親を亡くし祖父母に育てられましたが、中学生の頃、祖父が死去したため中学校の寄宿舎に入り、そこで生活を始めるようになりました。作家を志したのは中学2年のときで、『京阪新報』や『文章世界』に作品や短歌を投稿するようになりました。 1917年(大正6年)に中学を卒業すると上京し、第一高等学校の英文科に入学しました。 後に『伊豆の踊子』で書かれる旅芸人とのやりとりは、翌年の秋に伊豆へ旅行したときのものです。 1920年(大正9年)に高校を卒業し、東京帝国大学文学部英文学科に入学しました。 そして、英文学科から国文学科へ移り、翌年『新思潮』を創刊し、そこに発表した「招魂祭一景」が菊池寛らに評価され、1923年(大正12年)に創刊された『文藝春秋』の同人となりました。 大学卒業後、1924年(大正13年)、同人雑誌『文藝時代』を創刊し、同誌には「伊豆の踊子」などを発表しました。 1968年(昭和43年)には「日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による、彼の叙述の卓越さに対して」ノーベル文学賞を受賞しました。 しかし、1972年(昭和47年)4月16日、逗子のマンションの仕事部屋でガス自殺をはかり、72歳でこの世を去りました。 戒名は、文鏡院殿孤山康成大居士、大道院秀誉文華康成居士。 1973年に財団法人川端康成記念会により川端康成文学賞がつくられ、19 85年(昭和60年)には茨木市立川端康成文学館が開館しました。     次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。    

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金, 4月 16 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

4月9日金曜日 フランシス・ベーコン

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   フランシス・ベーコン(1561年1月22日 – 1626年4月9日)   ベーコンはルネサンス期の哲学者でキリスト教神学者、法律家でもありました。「知は力なり」という言葉で有名です。 12歳でケンブリッジ大学に入学し、その後、ロンドンのグレイ法曹院で法律を学び、23歳で国会議員となりました。 当時、エリザベス女王の寵臣だった軍事の英雄・エセックス伯の腹心となりました。 しかし、エセックス伯がアイルランド9年戦争の遠征に失敗した後、エセックス伯は女王に謀反を起こしたとされ1601年に反逆罪で処刑されてしまいました。 ベーコンは法律家としてエセックス伯を告発し、処刑後は事件の全貌を明らかにする公開書の作成にあたりました。 エリザベス朝およびジェームズ1世期の初期にはなかなか出世には恵まれませんでしたが、1607年に法務次長になったことを皮切りに順調に出世し、1617年に国璽尚書(こくじしょうしょ)と呼ばれる国璽を保管する大臣となり、翌年には大法官となりました。しかし、汚職の嫌疑をかけられ失脚してしまいます。 わずか4日間ですが、ロンドン塔に閉じ込められもしました。 そして隠退生活の中、鶏に雪を詰め込んで冷凍の実験を行った際に悪寒にかかり、それがもとで65歳で亡くなりました。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。    

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金, 4月 9 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

4月2日金曜日 高村光太郎

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   高村光太郎 (1883年3月13日 – 1956年4月2日)   本職は彫刻家・画家とも言えますが、『智恵子抄』等の詩集が有名になり教科書にも掲載されるようになったため、詩人として知られていることも多くあります。評論や随筆、短歌などの著作もあります。   彫刻家の高村光雲の長男として生まれ、東京美術学校(現・東京藝術大学)の彫刻科に入学しました。1902年彫刻科を卒業し研究科に進みますが、1905年には西洋画科に移りました。1906年よりニューヨーク、ロンドン、パリに留学し、3年後に帰国しまいした。   1914年に詩集『道程』を出版し、長沼智恵子と結婚をしました。 1929年に智恵子の実家が破産し、またこの頃から智恵子の健康状態が悪くなり、後に統合失調症を発病してしまいました。1938年智恵子と死別し、1941年に詩集『智恵子抄』を出版しました。 智恵子の死後、太平洋戦争の中、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表しました。しかし、 1945年4月の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失してしまいます 終戦後は岩手県花巻郊外に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独り暮らしをしながら自炊の生活を送りました。それは、戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動だったようです。この小屋は現在も「高村山荘」の名前で保存されています。   そして1956年4月2日午前3時40分に東京都のアトリエにて肺結核のため亡くなりました。73歳でした。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。 &n bsp;

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金, 4月 2 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

3月26日金曜日 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (1770年12月- 1827年3月26日)   ベートーヴェンは1770年12月、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンで父ヨハン、母マリア・マグダレーナの長男として生まれました 若かりし頃には、モーツァルトやハイドンに才能を認められ弟子入りを認められました。 しかし、20歳代後半ごろより持病の難聴が徐々に悪化し、26歳の頃には中途失聴者となってしまいました。音楽家として聴覚を失った絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』を記し自殺も考えましたが、苦悩を乗り越えて、再び生きる意志を得て新しい芸術の道へと進んでいくことになります。   そして1804年、交響曲第3番の発表を皮切りに、中期を代表する作品が書かれました。 ベートーヴェンの「傑作の森」と呼ばれる時期がちょうどこの頃です。   40代に入ると、難聴が次第に悪化し、晩年はほぼ聞こえない状態でした。また神経性の腹痛などにも苦しめられ、作曲が停滞してしまった時期もありましたが、そんな中においても『交響曲第9番』などといった大作などをいくつも残しています。  1827年3月26日、56年の生涯を終えました。その葬儀には3万人もの人々が駆けつけるという異例のものとなりました。 古典音楽の集大成、ロマン主義音楽の先駆を成し遂げた芸術史上の巨人として、楽聖と尊称されています。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。  

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金, 3月 26 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

3月19日金曜日 ランディ・ローズ 

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   ランディ・ローズ 1956年12月6日 – 1982年3月19日   ロックギタリストのランディーローズは、1975年にクワイエット・ライオットを結成し、1979年11月にはオジー・オズボーンのバンドに加入しました。しかし、1982年3月19日、オジー・オズボーンの全米ツアー中にセスナ機の墜落事故によりわずか25年の生涯に幕を閉じました。   ロック・ギターの進化の一端を担った人物とされますが、クラシック・ギターの素養を持ち、同世代のイングヴェイ・マルムスティーンより早くにクラシック的な雰囲気を曲中に組み込でいたと言われています。 晩年、ランディ・ローズはクラシック・ギターへの思い入れが強くなり、ロック・ギタリストとしての自分との葛藤に悩んでいたようで、クラシック・ギタリストとしての生き方への転換を本気で考えていたとも言われています。親友のルディ・サーゾには、オジーのバンドを脱退し、音楽学校に入学する意思を明かしていたようです。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。    

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金, 3月 19 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

3月12日金曜日 水野忠邦

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   水野忠邦 1794年(寛政6年)7月19日– 1851年(嘉永4年)3月12日)    「老中・水野忠邦」という響きで覚えていらっしゃる方も多いかと思います。江戸の三大改革の最後「天保の改革」を行った人物として知られています。  父親は唐津藩主の水野忠光(ただあきら)で次男として生まれましたが、長男が夭逝したため、後継ぎになり、やがて唐津藩主となりました。  出世願望の強い忠邦は、幕閣への出世を求め、唐津から石高が低い浜松へあえて転封しました。そして、自ら「青雲の要所」と称した大坂城代への昇進を足がかりに、1839年ついに12代将軍徳川家慶のときの老中に上りつめました。  しかし、1841年からの天保の改革では、政策と現実の乖離が大きく、人返し令、株仲間の解散、上知令(あげちれい)を断行しようとして反発を買い失脚しました。また、あまりに過激な改革であったため、庶民からの怨みを買い、失脚した際には暴徒化した江戸町民に家を襲撃されています。のちに老中に復帰しますが、在職中の賄賂問題で隠居・蟄居となり、失意のうちに没しました。  享年56歳でした。     次回のテーマは、最期の言葉です。   家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。  

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金, 3月 12 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

3月5日金曜日 和田 重次郎

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   和田 重次郎(わだ じゅうじろう) 1875年(明治8年)1月6日 – 1937年(昭和12年)3月5日)   北米で著名なマッシャーと呼ばれる犬ゾリ使いで、金鉱発掘やトレイル開拓、遭難船救助など行う探検家です。 アラスカで行われる屋内マラソンランナーとしても三度の優勝を飾りました。 明治8年1月6日、愛媛県に生まれ、16歳のとき「アシはアメリカに渡って住友になるぞな」という言葉を残し、松山を飛び出しました。翌年17歳のときにアメリカに密航を企てましたが、サンフランシスコに到着するものの北氷洋捕鯨の補給船に売られてしまい、3年間をケビン・ボーイとして過ごすことになりました。 明治27年、契約期間を終え、サンフランシスコに戻ると、報酬を日本の母に送金した後、アラスカに戻り、犬ソリを駆って、狩猟で得た毛皮で交易を行いました。 アラスカで金鉱を発見しゴールドラッシュを引き起こします。 タバスコ王、マキルヘニーと組んで鉱山開発に取り組むも、日本のスパイ説が流布され、身を隠すことを余儀なくされました。 その後もカナダ北部を拠点に北極圏を犬ソリでで走り回り、石油探査員となりシンジケートの代表を務めたり、探検家としての生涯を全うしました。 1937年3月、滞在先のサンディエゴで倒れ、三日後に郡病院で亡くなり、マウント・ホープの墓地に埋葬されました。享年62歳でした。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。  

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金, 3月 5 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

2月26日金曜日 高橋是清

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   高橋 是清(たかはし これきよ) 1854年9月19日(嘉永7年閏7月27日) – 1936年2月26日) 高橋是清は文部省・農商務省などを経て、明治25年日本銀行に入行し、明治32年日本銀行副総裁となりました。 日露戦争の外債募集に手腕を発揮し、明治44年日本銀行総裁に就任しました。高橋是清は歴代日銀総裁のなかで唯一その肖像が日本銀行券すなわちお札に使用された人物です。 第1次山本、原各内閣蔵相、立憲政友会総裁を歴任し、大正10年内閣総理大臣首相となりました。 第2次護憲運動に参加し数々の内閣の蔵相を歴任しました。高橋財政と呼ばれる積極的な財政政策が特徴で、井上準之助が行った緊縮財政としばしば対比されます。 また、公債発行による財政政策、また乗数効果を説いたことから、「日本のケインズ」とも呼ばれています。   政友会総裁犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任、金輸出再禁止(12月13日)・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額などで、世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させました。  軍事費抑制方針を示し、軍部と対立し、2・26事件で暗殺されました。81歳でした。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。  

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金, 2月 26 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

2月19日金曜日 エルンスト・マッハ

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。    エルンスト・マッハ(1838年2月18日 – 1916年2月19日) エルンスト・ヴァルトフリート・ヨーゼフ・ヴェンツェル・マッハは、オーストリアの哲学者でもあり物理学者、科学史家でもあります。   19世紀にニュートンによる絶対時間、絶対空間の概念を否定したマッハの原理を提唱しました。マッハの原理によると、物体の慣性力は、全宇宙に存在する他の物質との相互作用によって生じるとされています。 この考え方はアインシュタインに大きな影響を与え、相対性理論の構築への道を開きました。しかしながら、マッハ自身は相対性理論に対しては、生涯否定的な立場をとっていました。 また、超音速気流の研究でも有名であり、業績にちなみ、物体の速度と音速との比はマッハ数と呼ばれています。   また、マッハは経験的に検証不可能な命題は認められないという、極端な実証主義の立場をとり、絶対時間、絶対空間の概念、エネルギー保存則、原子の存在などを否定しました。「この世に絶対はあるのでしょうか?」 と発言しています。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。 

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金, 2月 19 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

2月12日金曜日 司馬 遼太郎

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。    本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   司馬 遼太郎(1923年(大正12年)8月7日 – 1996年(平成8年)2月12日) 司馬遼太郎は、大阪出身の小説家で、産経新聞社在職中、 『梟の城』で直木賞を受賞。 以後、俗に「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観に基づいて 数多くの作品を執筆、歴史小説に新風を送りました。 代表作には『国盗り物語』『竜馬がゆく』『坂の上の雲』などがあり、 戦国・幕末・明治を扱った作品が多くみられNHK大河ドラマでも 何度もドラマ作品化されています。 また、『街道をゆく』をはじめとするエッセイなどで活発な文明批評 を行いました。    次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。    

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金, 2月 12 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

2月5日金曜日 トーマス・カーライル

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   トーマス・カーライル(Thomas Carlyle, 1795年12月4日 – 1881年2月5日) 英国の評論家・歴史家。 ヴィクトリア朝を代表する言論人でした。 『フランス革命史』、『衣装哲学』、『英雄崇拝論』、『過去と現在』 などの著書があります。 ドイツ文学を研究したことでも著名で、ゲーテとの往復書簡があり、 <全集 ザ・ワークス・オブ・トーマス=カーライル>は30巻に達しています。 夏目漱石がロンドン留学時に記念館を訪れたことでも有名で、 帰国後紀行文「カーライル博物館」を書きました。 またキリスト教思想家の内村鑑三にも多大な影響を与えたとも 言われています。   次回のテーマは、最期の言葉です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。    

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金, 2月 5 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

1月29日金曜日 藤田 嗣治

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   1月29日 藤田嗣治(ふじた つぐはる)(1968年没) 藤田 嗣治は東京都出身の画家・彫刻家です。 現在においても、フランスにおいて最も有名な日本人画家です。猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びた。エコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家です。 1955年にフランス国籍を取得(その後日本国籍を抹消) 1957年フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を贈られる。 1959年にはカトリックの洗礼を受けてレオナール・フジタとなる。 1968年1月29日、ガンで死去。ランス大聖堂で葬儀を行い、遺体はパリの郊外、ヴィリエ・ル・バクル(Villiers-le-Bacle)に埋葬されました。享年81歳でした。   次回のテーマは、最期の言葉です。 今週の放送はおわり。また来週です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。  

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金, 1月 29 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

1月22日金曜日 河竹黙阿弥

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。    本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   1月22日 河竹黙阿弥(かわたけ もくあみ)(1893年没) 念仏を唱え往生。 江戸時代幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎狂言作者。別名に古河 黙阿弥(ふるかわ もくあみ)ともあります。 江戸日本橋の裕福な商家に生まれましたが、若い頃から読本、芝居の脚本や川柳、狂歌の創作にふけるようになり、14歳で道楽が過ぎて親から勘当されてしまいました。 貸本屋の手代となって生計をたてるようになりましたが、仕事はそっちのけで朝から晩まで読書三昧の日々を送り、これが将来の糧となったようです。 紆余曲折を経て、有名になりましたが、作者家業もおっくうになってきた明治14年 (1881年)、團菊左(だんきくさ)のために散切物の『島鵆月白浪(しまちどりつきのしらなみ)』を書き上げると、これを一世一代の大作として引退を宣言、 さらにその名をただ黙阿弥(もくあみ)と改めて、不満の意思を示しました。この短い「黙阿弥」という名には、「自分の意見に耳を貸す者がいのならもう黙っていよう」という、半ば自虐的な鬱憤が織り込まれています。 明治26(1893)年1月22日東京歌舞伎座『奴凧廓春風(やっこだこくるわのはるかぜ)』を絶筆として自宅で逝去しました。     次回のテーマは、最期の言葉です。 今週の放送はおわり。また来週です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。

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金, 1月 22 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

1月15日金曜日 平忠盛

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   1月15日 平忠盛(1153年没) 平 忠盛(たいら の ただもり)は、平安時代末期の武将。 伊勢平氏庶流。平清盛の父。平氏で初めて昇殿を許された方です。 白河法皇・鳥羽法皇の院近臣として活躍。諸国受領を歴任して巨富(きょふ)を成しました。 また、たびたび西海の海賊追討に功を挙げ、西国に平家勢力を扶植(ふしょく)させています。仁平(にんぺい)3年1月15日没、享年57歳だと言われます。   次回のテーマは、最期の言葉です。 今週の放送はおわり。また来週です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。    

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金, 1月 15 2010 » 今日のご冥福 » No Comments

1月8日金曜日 マルコ・ポーロ

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、 家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。   本日のテーマは、「今日のご冥福」。 歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。   1月8日 マルコ・ポーロ(1324年没) イタリアの旅行家。 マルコ・ポーロ(1254年9月15日 – 1324年1月8日)は、ルスティケロの著作『東方見聞録』を口述したというヴェネツィア共和国の商人で旅行家でした。 『東方見聞録』によれば1271年にイラン・中央アジアを経て上都に入り、皇帝フビライに謁見しました。その後、17年間元(げん)に仕えました。モンゴルの言葉は話せましたが、中国語は話せなかったようです。中国周辺の各地を巡り、揚州では3年間行政官を務めた後、1292年、泉州からイランのイルハン朝を経て帰国したといわれます。1324年1月8日、69歳にて病死と言われます。     次回のテーマは、最期の言葉です。 今週の放送はおわり。また来週です。  家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。  

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金, 1月 8 2010 » 今日のご冥福 » No Comments