家族葬専門葬儀社オフィスシオン しきたりアカデミー

葬儀や死の専門情報を通じて、そこに向かいより良い人生を歩めるように、少しでもお役に立てれば幸いです。

2月28日 かならず

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。 今回のシリーズは、「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」です。今は亡きあの人へ伝えたい言葉プロジェクトは人と人の温かいつながりや、人の優しい心を多くの人に伝えていこうとの思いからスタートしました。全国から寄せられたたくさんのお手紙の中から、毎日1話ずつご紹介していきます。 かならず 久しぶり、おとう。元気?天国版草野球は楽しい? ねえ、おとう。おとうが旅立ったあの日から10年経ったよ。早いものですよ。 ねえ、お葬式ってさ、見てたかな。おとうのお葬式にはね、ものすごい数の人が来たんだよ。それでね、大勢の人が涙を流して、おとうの旅立つ姿を見送ったんだよ。 けどね、みんな泣いてるばっかじゃなくてさ、おとうとの思い出を話しながら笑ったりもしてるの。あ、馬鹿にして笑ってるとかじゃないからもちろん、安心して。おとうが生前言ってた冗談とかをみんな覚えててさ、それは話しながらなんかすごい楽しそうなの。それを見て私、あの日すごく感動したんだ。だっておとうはすごいもの残していったんだなって。こんなにたくさんの人を笑顔にしてきたんだって。 おとうは結構、卑屈だったり頑固だったりしてたけどさ、人を笑顔にするパワーは超一流だったよね。相手を困らせるくらい冗談言って、多少めんどくさがられてたけど、いつでも人を元気にしてたよね。それがなんかさ、嬉しくて私ね、ずっと泣いてたよ。楽しみと混同しながらいっぱい泣いた。 だから私ね、その時決めたの。私もたくさんの人を笑顔にしようって。なるべくたくさんの人が、悲しいはずのの時にもつい思い出したら笑っちゃうような、そんなおとうみたいな大人になろうと思った。 だからおとう、天国版草野球の間にでも見守っていてくださいよ、娘の活躍。娘は今、人前に立って人を笑顔にするお仕事をしているよ。まだまだだけどね。おとうまでの道のりは遠いよ。だけどさ、かならず、ね。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。

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木, 2月 28 2013 » 「今は亡きあの人に伝えたい言葉」より » No Comments

2月27日 拝啓、親父

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。 今回のシリーズは、「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」です。今は亡きあの人へ伝えたい言葉プロジェクトは人と人の温かいつながりや、人の優しい心を多くの人に伝えていこうとの思いからスタートしました。全国から寄せられたたくさんのお手紙の中から、毎日1話ずつご紹介していきます。 拝啓、親父 親父、久しぶり。親父が逝ってしまってもう3年になります。おふくろはしばらく寂しそうでしたが、今は孫の世話で大忙しです。悪いけどおふくろはまだそちらへは行きません。まだ当分の間、1人でのんびりしていてください。 親父がもあまり長くないってわかった時、僕は『最後くらいは優しくしよう』って思いました。当時の僕は、親父に話しかけられてもいつもめんどくさそうに適当な返事をしていましたよね。振り返ってみたら親父と真剣に話したことなんて、もう何年間も全然ありませんでした。 でも、結局、僕は最後まで無愛想なままでした。いつも無愛想な僕が、最後だけ急に無理して優しくしても、親父に失礼なだけだし、親父も喜ばないと思ったからです。最後まで愛想のない息子でごめんな。 親父と最後に話したのは、親父が逝ってしまう数日前でした。意識が混沌としていたはずなのに、僕が病室に入った時、親父は最後の力を振り絞って僕に何か伝えようとしていましたね。でも途中で医者に止められて、僕は病室から出されてしまいました。 もし、親父があのときのことを気掛かりに思っているんだったら、その必要はありません。あの時、親父が何を言いたかったのか、僕はわかっていたんですよ。 高校生の頃、親父は僕に『もっと勉強しろ』って言ったことが一度もないよね。僕を信じて見守ってくれていたんだよね。でも僕が、『それは無理だよ』とか『そんなのできるわけない』と言った時だけ烈火のごとく怒っていましたね。あの時は親父がどうしてそんなに怒るのかわかりませんでした。親父の思いが少しずつわかるようになったのは、僕自身が父親になってからです。 誰にでもできる当たり前の事を誰もやらないくらいまで徹底的にやること、先のことを心配するよりも今その瞬間にできることに全力で取り組むこと、無理だと思った瞬間にチャンスは逃げていってしまう事。親父が伝えたかったのはそういうことだよね。 親父が最後に病気と闘っていた時、僕は大きな仕事を抱えて苦しんでいました。でも、親父の教えを頼りに前進を続けました。親父が逝ってしまったのは、僕がその仕事をやり終えた直後でした。親父が応援してくれていたんだよね。ありがとう。 そうそう大切なことを忘れていました。先月2人目の子を授かりました。とっても元気な男の子です。親父が僕を育ててくれたように、僕はその子育てます。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。

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水, 2月 27 2013 » 「今は亡きあの人に伝えたい言葉」より » No Comments

2月8日 ありがとうお父さん

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。 今回のシリーズは、「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」です。今は亡きあの人へ伝えたい言葉プロジェクトは人と人の温かいつながりや、人の優しい心を多くの人に伝えていこうとの思いからスタートしました。全国から寄せられたたくさんのお手紙の中から、毎日1話ずつご紹介していきます。 ありがとうお父さん 僕が小学校3年生の頃でした。朝起きて具合が悪いと言ったら、休みなさいと母がいました。 僕よりいつも遅く出かける父は、会社に行ってすでにいませんでした。うまくいったとぼくは思いました。 普段なら熱を測られて、平熱だから学校に行きなさい、と父に言われるところでした。 実際はどこも悪くないので明日は行かなくてはならないだろうと思っていました。夕食の後で体の具合を母に聞かれました。 『まだ何となく熱っぽい』といって、自分の額をさわりました。それなら明日も休みなさいと、母がいいました。そして翌日も、その翌日み夕食を終えると、どうなのと、母は聞いてくるだけで、僕の言い訳を聞くと、治っていないなら休みなさいと、母はいいました。 夕食の後で母は確認をしてきます。ひと月以上も休み続けていましたが、母から学校へ行きなさいという指示はありません。母の口からその言葉は出ないことに僕は気づきました。 ある夕食の時に、明日は学校に行く、と自分から言い出しました。母は少し考えてから、それなら行きなさい、と答えました。 数十年が過ぎて、父の通夜の日に母がうつむきながら遺品を片付けていました。 『あなたが毎朝、小学校に行きたがらなくてね』と立っている僕に母は語りだしました。 『今朝はどこが痛いというのかなと言ってお父さんはあなたを起こすのよ。あまり学校に行くを嫌がるから、あなたを休ませなさいとお父さんが私に言ったのよ』 僕の夏休みに父が関わっていたことをその時初めて知りました。そういえばいつもは僕より遅く出かける父が、長い休みの間は僕が起きたときにはいつもいませんでした。 『自分から行きたいと言うまではいかせないようにと私にいったわ。必ず行きたいというようになるからそれまでは待て、とね』 普段は僕に小学校に行くようにいっておきながら、父は内心僕のことを心配してくれていたのでした。 父が寝ている部屋に僕は一人できました。白い布を外し、冷たくなった父の額をなでると、涙が溢れてきました。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。

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金, 2月 8 2013 » 「今は亡きあの人に伝えたい言葉」より » No Comments

2月7日 天国のお父さんへ・・・ありがとう

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。 今回のシリーズは、「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」です。今は亡きあの人へ伝えたい言葉プロジェクトは人と人の温かいつながりや、人の優しい心を多くの人に伝えていこうとの思いからスタートしました。全国から寄せられたたくさんのお手紙の中から、毎日1話ずつご紹介していきます。 天国のお父さんへ・・・ありがとう お父さんが亡くなって3年が経ちました。亡くなったのが89歳でしたから、世間一般から見れば大往生ということになるのかもしれません。国鉄で30数年間働き、そして定年後は悠々自適な生活を送ることができたのですから。でも本当は波乱に満ちた人生を乗り越えて生きてきたのだと、今になって初めて知ったような気がします。 僕が小さい頃のお父さんの印象と言えば、気が短くて、いつも難しい顔をしている。近寄りがたい存在でした。僕が幼稚園に通っている時分のある朝のこと。僕が幼稚園に行きたくないと駄々をこねていると、お父さんは、『いやなら行かんでいい!』と怒って、幼稚園の鞄を土間に投げつけたことがありました。 またある時は、夜遅くにも関わらず、熱のある僕をおぶって町の小児科医院まで連れてってくれました。自家用車などなかった時代です。今思うと右腕しかないお父さんが子供をおぶって行くというのは、たとえ1キロの距離でしかなくとも、さぞかし大変なことだったと思います。でも僕は、お父さんと一緒に外に出るのが嫌でした。それはお父さんがよそのお父さんと違って片腕しかないからでした。一緒に歩くのが恥ずかしかったのです。今思えば、なんと親不幸なことかと、自分自身が腹立たしく、そして情けない限りです。 お父さんと一緒に歩けるようになったのは、高校生になってからでした。その頃にはお父さんがどうして片腕になってしまったのか、ということが理解できるようになり、堂々と一緒に歩くことができるようになったのです。むしろ誇りに感じるようにもなりました。 お父さんは兵隊時代にインドネシアで負傷したのでしたね。しかも、それは日本が降伏した後に起きたインドネシア独立戦争に巻き込まれてのことですから、さぞ悔しかったでしょう。お父さんに戦争の話を聞いても、あまり喋りたがらなかったのは、このような戦時中の嫌な思い出があったからかもしれませんね。 お父さんの孫たち3人も大学や短大を卒業し、今は社会人となりました。 今になり、お父さんの気持ちがわかるようになりました。 『ごめんなさい』、そして『ありがとう』 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。

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木, 2月 7 2013 » 「今は亡きあの人に伝えたい言葉」より » No Comments

2月6日 お母さんをよろしく

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。 今回のシリーズは、「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」です。今は亡きあの人へ伝えたい言葉プロジェクトは人と人の温かいつながりや、人の優しい心を多くの人に伝えていこうとの思いからスタートしました。全国から寄せられたたくさんのお手紙の中から、毎日1話ずつご紹介していきます。 お母さんをよろしく 44歳と半年で、お父さんあなたは逝ってしまいました。お母さんはまだ42歳、お姉ちゃん達は高校生で、私は14歳の誕生日を迎えたばかりの秋でした。 それから37年の歳月を経て、昨年末、お母さんはやっと天に召されました。『こんなにおばあちゃんになっちゃったから、お父さんは天国で私のこと分からないんじゃないかしら』って、お母さんは病床で心配していましたよ。お父さん、お母さんを直ぐに見つけて 、抱きしめてあげてくれましたか? お父さんは真面目で、ただひたすらにお母さんだけを愛していて、そんなのろけ話を、今までに何度もお母さんから聞かされてきました。お父さん、安心してね。37年間、誰かに心動かされることなく、お父さんのことだけを思って生きてきたお母さんの姿、私は確かにこの目で見てきましたから。 お父さんは息子が欲しくて仕方なかったようだけれど、お母さんが倒れて入院して、私はどれほど三姉妹であることのありがたさを、かみしめたかわかりません。お母さんの長い入院生活を、私たちは3人で助け合い、支え合って頑張ってきました。好き嫌いの多いお母さんの好物、みたらし団子、大福、ショートケーキや鉄火巻きなんかを、私たちはせっせとお母さんに届けては、口に運んであげました。お父さん少しは褒めてくれますか? お母様だんだんと物を食べられなくなって、最後には枯れ木のように痩せ細ってしまったけど、不思議なことにお母さんの瞳は最後まで、夢見る少女のように輝いていました。『死ぬのは怖くない。だって、お父さんが待ってるもの』お母さんは泪をためたキラキラした瞳で私にそういました。 四十九日の法要の日、お母さんの骨壷が、お墓の中のお父さんの隣に寄り添うように収められた時、私はとても安らかな気持ちになりました。『これでもう、大丈夫』そんな気がしました。 その日の空は真っ青に澄んでいて、墓石の隣には真っ白な梅の花が、静かに微笑んでいました。 お父さんは何よりも大切な宝物を、やっと取り戻すことができましたね。本当はお父さんも、待ちわびていたのでしょう?長いこと1人で頑張ってきたお母さんを、これからはしっかりと抱きしめていてあげてください。お父さん、お母さんよろしくね。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。

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水, 2月 6 2013 » 「今は亡きあの人に伝えたい言葉」より » No Comments

2月5日 間に合わなかったけれど

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。 今回のシリーズは、「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」です。 今は亡きあの人へ伝えたい言葉プロジェクトは人と人の温かいつながりや、人の優しい心を多くの人に伝えていこうとの思いからスタートしました。全国から寄せられたたくさんのお手紙の中から、毎日1話ずつご紹介していきます。 間に合わなかったけれど 『おふくろ30分前に逝ったよ』 妊娠中の娘の手伝いで10日を過ごし、疲れ果てて帰り着いたあの日、人気のない駅に降り立った私を待っていたのは虚ろに響く夫の声でした。 空っぽの心で駆け付けた病院の霊安室。暗く冷たい部屋のベッドの上に、幼児のようにあどけなく穏やかに眠る、お義母さんの姿がありました。もう、あなたの浮き世離れした話を聞くことも、裏返しにきた服を直してやることもできない。理想的な娘のような嫁になれなかったお詫びや、喧嘩しつつも30数年共に暮らせた喜び。万感の思いを込めて告げるつもりだった私の『ありがとう』は間に合わなかった。ぽろぽろと涙がこぼれました。 私達が同居したての頃、お義母さんは今の私よりもっと若く、一家の頼もしい中心でした。耳にタコが出来るほど聞かされた、若き日の苦労話や愚痴話。毛糸編みの内職をして我が家を建てたこと、庭一面にバラ園を作ったこと、子育てには毅然として当たり、周囲から頼りにされていたこと。いつも冷静で何でも出来る人。憧れさえ抱いたものです。共に、世の中の理不尽さを憂え、蓮華や彼岸花摘みをしたり、時には争いもしました。 そんな気丈なあなたに、いつの頃からか現れ始めた異変。思えば、旅立ちの序章だったのでしょうね。そこにいない人に話しかけたり、服を逆さまに着たり、真夜中に冷蔵庫ほ食材をテーブルに並べたり、たくさんの布団を広げて、お客を迎える準備をしたり。ついには真夜中の徘徊。お義母さんの世界がどんどん私たちの手から遠のいていきました。 認めたくも信じたくもありませんでした。でもどんどん幼児に還っていくあなたはいじらしく、愛おしく感じられるようになりました。春になったら、大好きな桜の花見連れて行こう。いろいろ想いを膨らませました。それなのにあっという間に終章が訪れて。 四十九日が過ぎた朝、玄関前のミニトマトの葉の上に一匹のホタルが訪れました。逝ったばかりのお義母さんが、旅立ちに間に合わなかった私のために、お別れに来てくれた・・・家の中にそっと放すと嬉しそうに光りました。『ありがとう』とようやく言えました。 お義母さん、待っていてくださいね。また会いに行きます。お葬式の日に号泣していたあなたの息子と一緒に。あなたのお気に入りのお墓の周囲は、新緑におおわれる頃です。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。

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火, 2月 5 2013 » 「今は亡きあの人に伝えたい言葉」より » No Comments

2月1日 会いたい

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。 今回のシリーズは、「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」です。 今は亡きあの人へ伝えたい言葉プロジェクトは人と人の温かいつながりや、人の優しい心を多くの人に伝えていこうとの思いからスタートしました。全国から寄せられたたくさんのお手紙の中から、毎日1話ずつご紹介していきます。 会いたい その人は東京、両国の生まれ。商家の末娘で、家は大きく商売を営んでいた。踊りのために通称名ももち、クリスチャンネームも持っていた彼女は都会のお嬢様として育ったのだった。 そんなお嬢様が女学校を出た頃には戦争景気で日本の湧き、満州で成功していた叔母に呼ばれてあちらで幸せに暮らすはずだった。満州では床暖房が張り巡らされ、地下室には食料がありあふれんばかりに貯蔵されていたとか。使用人も多く、ますますのお嬢様暮らしだったが、終戦を迎えて、使用人たちがここは自分たちの土地だと騒ぎ出す。その上、ロシア軍がやってきて『ダワイ、ダワイ(よこせよこせ)』と時計からお金まで巻き上げていっらたそうだ。だからロシア人は大嫌いと平和な時代になっても彼女は口癖のように言っていた。厳寒の中、女とわからないように髪を短く切って、コロッケや餃子を売ってしのいだ。命からがらに引き上げてきた彼女はミャンマーのインパール作戦で生き残った男性と一緒になり、私の夫を産んだ。昭和29年のことである。 義母の葬儀の際、叔母に義母は『ドラマになるくらいの人生を歩んだ』というと、『あの頃は日本人全員が多かれ少なかれ、そんな思いをしているんだよ』と言われた事を思い出す。ドラマを地で行く人生が溢れていたんだと痛切に思ったこと忘れない。 こんな義母も長屋で男の子を2人育て、だみ声の貫禄のある肝っ玉母さんになっていた。コーラで兄弟喧嘩になった際、『そんなに飲みたければ浴びるほど飲みなさい』と小学生の息子の頭に何本もコーラをかけたという話は、江戸っ子の勇ましさを物語る。 その後私が主人と結婚した直後に、23歳の次男を亡くし、毎晩死に場所探してさまよっていた義母。それを救ったのが我が長女の誕生だった。 晩年ガンに侵されて歩くこともできなくなり、手術後2年の入院生活を経て、最後には寝たきりになる。信仰深い義母であり、後の者が困らないようにすべてのことをノートに書きしたためて、あの世に行った。 同居しながら何も私に文句も言わない出来た人だったが、私は井戸端会議で皆と同じように姑の愚痴を言うような出来の悪い嫁だった。 母が亡くなってもこの義母の生き様を私は忘れない。今、義母が生きていてくれたら会いたいと思うのです。そして今までの私を、すべてのことに、これでいいの?どう思う?と聞いてみたい。 家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。

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金, 2月 1 2013 » 「今は亡きあの人に伝えたい言葉」より » No Comments