家族葬専門葬儀社オフィスシオン しきたりアカデミー

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5月7日金曜日 真田信繁

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。

 

本日のテーマは、「今日のご冥福」。

歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。

 

真田信繁(さなだ のぶしげ) 慶長2057日(161563日)

 

真田信繁は、現代では真田幸村(さなだゆきむら)という名前の方が有名かもしれません。

信繁は、武田家の配下だった真田家の信濃上田城主・真田昌幸の次男として生まれました。旗印である六文銭が有名ですが、正しくは「六連銭」と呼ばれる家紋です。これは、三途の川の渡し賃である冥銭を表しているといわれ、旗印にすることは「不惜身命」(ふしゃくしんみょう)を意味するといわれています。

 


真田家は武田家が滅ぼされた後、信長の配下となりましたが、本能寺の変により信長が明智光秀に討たれると真田家は後ろ盾がなくなってしまいました。この間に徳川家康との間で戦があり、豊臣秀吉が仲介をしましたが、この縁で真田家は豊臣家に仕えることになります。秀吉亡き後、徳川家康と石田三成との間で関ヶ原の戦いが起こりますが、真田家はどちらかが負けても真田の家名は残るように、信繁の兄である信之は東軍に、信繁は西軍に着きました。

 


敗れた西軍についた信繁親子は所領を没収され、浪人として生活をすることになりました。その間に父を亡くし、辛い生活を強いられましたが、1614年徳川との戦いに向け、豊臣家に加勢するように誘われ大坂城に入りました。

徳川との決戦に備え、浪人中に学んだ軍略を提案し野戦を主張しますが、その時は受け入れられず籠城戦を取ることになりました。そのような状況でも、軍略を駆使し、籠城戦となったときに大坂城の弱点である南側に通称「真田丸」と呼ばれる出丸を構築し、大阪冬の陣の時にはここへ誘い込み徳川方を苦しめました。

しかし、大坂夏の陣では、家康に和議を破られ外堀を埋められたことにより大坂城は丸裸となりました。もはや防御機能が無くなった状態での籠城戦では勝ち目が無くなりました。信繁は最後の抵抗をみせ、徳川本陣まで攻め込み、徳川家康をあと一歩のところまで追いつめますが、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、「自分の首を差し出し高名とせよ」と敵にその首を授け波乱の生涯を49歳で終えました。

 

 

次回のテーマは、最期の言葉です。


家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。

 
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金, 5月 7 2010 » 今日のご冥福

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