家族葬専門葬儀社オフィスシオン しきたりアカデミー

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7月16日金曜日 板垣退助

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。

 

本日のテーマは、「今日のご冥福」。

歴史上の人物で本日のご命日の方を偲び功績をご紹介します。

 

板垣退助(いたがき たいすけ、天保8417日(1837521日)大正8年(1919年)716日)

 

板垣退助は天保8年(1837年)土佐藩士・乾栄六正成の長男として生まれました。幕末には、倒幕運動に参加し、武力倒幕を主張しました。明治2年(1869年)明治新政府において、「薩長土肥」の筆頭藩士である、木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に、参与に就任します。そして、明治3年(1870年)に高知藩の大参事、明治4年(1871年)に参議となりました。しかし、明治6年(1873年)征韓論を主張しますが、欧米視察から帰国した岩倉具視らの慎重論に敗れ、新政府は分裂し、板垣は西郷隆盛らとともに下野してしまいます。

 


その後は、自由民権運動を推進し、自由党を結成して党首となりました。全国を遊説してまわり、党勢拡大に努めていましたが、暴漢に襲われ負傷しますが立ち上がり「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言いました。「板垣死すとも自由は死せず」という言葉で覚えている方も多いと思います。

 


明治31年(1898年)対立していた大隈重信の進歩党と憲政党を組織して、通称隈板内閣(わいはんないかく)で内務大臣として入閣します。しかし、内閣は内紛が激しく、4ヶ月で総辞職することとなり、明治33年(1900年)、立憲政友会の創立とともに政界を引退しました。

 


政界引退後は、機関誌「友愛」を創刊したり、全国の華族に華族の世襲禁止を問う活動を行ないました。そして191979日、82歳でこの世を去りました。

 

 

次回のテーマは、最期の言葉です。


家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。

 

 

 

金, 7月 16 2010 » 今日のご冥福

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