家族葬専門葬儀社オフィスシオン しきたりアカデミー

葬儀や死の専門情報を通じて、そこに向かいより良い人生を歩めるように、少しでもお役に立てれば幸いです。

2月1日 会いたい

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。
今回のシリーズは、「今は亡きあの人へ伝えたい言葉」です。
今は亡きあの人へ伝えたい言葉プロジェクトは人と人の温かいつながりや、人の優しい心を多くの人に伝えていこうとの思いからスタートしました。全国から寄せられたたくさんのお手紙の中から、毎日1話ずつご紹介していきます。

会いたい

その人は東京、両国の生まれ。商家の末娘で、家は大きく商売を営んでいた。踊りのために通称名ももち、クリスチャンネームも持っていた彼女は都会のお嬢様として育ったのだった。

そんなお嬢様が女学校を出た頃には戦争景気で日本の湧き、満州で成功していた叔母に呼ばれてあちらで幸せに暮らすはずだった。満州では床暖房が張り巡らされ、地下室には食料がありあふれんばかりに貯蔵されていたとか。使用人も多く、ますますのお嬢様暮らしだったが、終戦を迎えて、使用人たちがここは自分たちの土地だと騒ぎ出す。その上、ロシア軍がやってきて『ダワイ、ダワイ(よこせよこせ)』と時計からお金まで巻き上げていっらたそうだ。だからロシア人は大嫌いと平和な時代になっても彼女は口癖のように言っていた。厳寒の中、女とわからないように髪を短く切って、コロッケや餃子を売ってしのいだ。命からがらに引き上げてきた彼女はミャンマーのインパール作戦で生き残った男性と一緒になり、私の夫を産んだ。昭和29年のことである。

義母の葬儀の際、叔母に義母は『ドラマになるくらいの人生を歩んだ』というと、『あの頃は日本人全員が多かれ少なかれ、そんな思いをしているんだよ』と言われた事を思い出す。ドラマを地で行く人生が溢れていたんだと痛切に思ったこと忘れない。

こんな義母も長屋で男の子を2人育て、だみ声の貫禄のある肝っ玉母さんになっていた。コーラで兄弟喧嘩になった際、『そんなに飲みたければ浴びるほど飲みなさい』と小学生の息子の頭に何本もコーラをかけたという話は、江戸っ子の勇ましさを物語る。
その後私が主人と結婚した直後に、23歳の次男を亡くし、毎晩死に場所探してさまよっていた義母。それを救ったのが我が長女の誕生だった。
晩年ガンに侵されて歩くこともできなくなり、手術後2年の入院生活を経て、最後には寝たきりになる。信仰深い義母であり、後の者が困らないようにすべてのことをノートに書きしたためて、あの世に行った。

同居しながら何も私に文句も言わない出来た人だったが、私は井戸端会議で皆と同じように姑の愚痴を言うような出来の悪い嫁だった。

母が亡くなってもこの義母の生き様を私は忘れない。今、義母が生きていてくれたら会いたいと思うのです。そして今までの私を、すべてのことに、これでいいの?どう思う?と聞いてみたい。

家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。

金, 2月 1 2013 » 「今は亡きあの人に伝えたい言葉」より

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