家族葬専門葬儀社オフィスシオン しきたりアカデミー

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11月11日 日本墳墓史8

「オフィスシオンFMしきたりアカデミー」では、家族葬専門葬儀社オフィスシオンが、しきたりや、葬にまつわる慣習やマナーをご紹介いたします。

今回のシリーズは、「日本墳墓史」

最近「自由葬」であるとか「個人墓」など、お墓が話題になることも増えてきましたが、長い歴史の中でどのように墓が移り変わってきたのか、日本墳墓史と題して、墓の歴史をたどってみます。

平安時代(794~1185)

貴族の墳墓には卒塔婆が立てられた。850年の仁明天皇の深草陵である。921年、天台宗の僧・良源の遺告に、「生前に墓地をきめ、万一その前に死んだら北方の勝地にしてほしい。棺も生前に準備する。間にあわなければ、その日の中に入棺し、3日以内に埋葬する」などといい残している。石塔に関しては「石卒都婆を生前に作り運んでほしい。もし運ばざる前に命が終われば、しぱらく仮卒都婆を立て、その下を掘り、骨を穴底において上に土を満たずベし。四十九日のうちに石卒都婆をつくりて、立て変えるべし。これは遺弟らがとぎどぎ来礼の標示なり。卒都婆に、光明、五宇、阿弥陀などの真言を安置す」とある。

藤原氏の氏寺は、平城京になってからは興福寺に変わった。承平6年(936)に太政大臣に就任した藤原忠平は、先帝の醍醐天皇と父基経の墓に詣つている。その彼も、義埋の祖父や高祖父の墓がどこにあるのか知らなかつた。平安貴族の葬儀は多く火葬で、火葬場までは着いていくが、茶毘には立ち会わず、鴨川で清めをすませて家へ帰り、骨上げは故人の乳母の子など、身分の下の者が骨壷に納めて墓所に納めたのである。

938年、市上人空也は、念仏を唱えて京で庶民を教化、亡骸を拾い「南無阿弥陀仏」と唱えて火葬している。

家族葬専門葬儀社オフィスシオンがお送りいたしました。

金, 11月 11 2011 » 日本墳墓史

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